義務教育とはなんだ!?

欠席日数欄や「責任感」などの評価、内申書から廃止検討 愛知県教委(朝日聞5月21日)

 愛知県教育委員会が、公立高校入試の調査書(内申書)にある「出欠の記録」と「行動の記録」の廃止を検討していることが分かった。近く、本格的な議論を始めるという。その狙いとは──。
 
 県内の公立高校入試はウェブ出願システムを導入しており、中学校が各受験生について、調査書情報として内申点にあたる「学習の記録」や、総合的な学習の時間でどんな活動をしたかを登録する。
 
 出欠の記録と行動の記録も調査書情報の一部だ。出欠の記録には2・3年生の時の欠席日数を記入する。行動の記録では、「責任感」や「思いやり」といった10項目について丸をつける形で評価する。ただ、合否は学力検査の結果と内申点の組み合わせで判断されており、両記録は「参考程度」(県教委)だったという。

 登校していなくても熱心に家庭学習などに取り組んでいる生徒もいる。欠席日数が必ずしも学習意欲を反映するものでないことや、廃止によって体調不良時などに無理して登校する子を減らせるのではという狙いから、検討を始めた。
 
 行動の記録については、客観的な基準が作りにくく、評価が教員の主観に寄りがちになってしまう難しさがある。このほか、学校での様子をもとに考えるため不登校の生徒の評価がしづらいといった問題があるという。
 
 文部科学省の調査によると、公立高校入試の調査書に出欠の記録がないのは2024年度入試の時点で、東京や神奈川、大阪、奈良、広島の5都府県。福井県や岐阜県も25年度入試から廃止している。行動の記録がないのは、24年度入試の時点で、岩手や秋田、福島、埼玉、東京、岐阜、京都、大阪、兵庫、和歌山、広島の11都府県。
 
 東大大学院の中村高康教授(教育社会学)によると、入学者選抜に内申書が導入されたのは1927年。学業成績だけではなく、人物や生活状況も含めて総合的に判断するのが目的だった。
 
 しかし近年、不登校の生徒や、大人に代わって家族の世話を担うヤングケアラーら、様々な事情で登校できない子どもたちへの配慮の必要性が高まっている。さらに、日常生活を評価されることが子どもたちへの重圧になるのではという懸念から、出欠の記録や行動の記録を廃止する動きが広がっているという。
 
 出欠の記録については、新型コロナの流行により体調不良の時は感染拡大を防ぐためにも登校を控えるという風潮が高まったことも「(廃止を)考えるきっかけになったのでは」と中村教授。
 
 文科省が24年6月に調査書について「入学者選抜の実施に真に必要な事項」に見直しを図るよう求める通知を改めて出したことも、「教育委員会にとって舵を切りやすくなっている」とみる。
 
 だが、出欠の記録の廃止により、がんばって出席している生徒が報われなくなることはないのか。中村教授は「出欠の差が、努力の差だとは必ずしも言えない。出欠は本人の努力ではどうしようもない場合もある」と指摘する。そのうえで「出欠の記録がなくなっても、がんばって出席している生徒の力は出欠以外の項目に反映されてくるはず」と話す。
 
 「(出欠の記録や行動の記録の廃止は)自分の振るまいが評価の対象になるという子どもたちの不安を払拭する」と中村教授。「教員の負担軽減にもなる」といい、「その余力が手厚いフォローや教科指導につながれば、
子どもたちのためにもなる」と語る。

https://www.asahi.com/articles/AST5N3DRXT5NOIPE00KM.html

 今回の記事で、高校入試の選抜資料に、出欠の記録や行動の記録のない県があるのを初めて知った。驚くべきことだ。子どもに迎合するようなことでどうするのか。こんな甘々なことで良いのか。子ども時代の義務は、学校に行くこと、そこで勉強すること、集団生活が出来るようになることなのに、そのことを選抜資料にしないということは、どういうことなのだろうか。

 学力だけを評価するのが、学校ではない。学校は、子どもを社会の構成メンバーにするための機関だ。社会での人間関係を形成するメンバーとして、大人になっていくための機関だ。だから、義務教育を卒業する際に、他人に評価されることに慣れておかなければ、社会で人間関係など営めないし、自由に行動することなど出来ない。それを子どもに迎合する、教師が忙しいから選抜資料から外すとは、どういうことなのか。

 こんなことでは、日本はダメになってしまう。子どもに求めることは求めることだ。そうしなければ、社会という荒波で生きていくことは出来ない。特に、開かれた社会になればなるほど。

一般社団法人日本教育コンサルタント協会
代表理事 中土井鉄信